相馬中村城 [旅行]
常磐線、原ノ町駅から仙台行きに乗車し、相馬駅で下りる。ずっと電車に乗っているのは身体に良くない。相馬中村城へタクシーで行った。
タクシーの運転手さんの話だと相馬市の平地の除染は終わったが、山林はまだである。汚染土壌は市内に保管されていたが、双葉町に移しているという。結局、汚染土は双葉町に集積するのだろうか。
中村城の濠。
右側に見える時代色豊かな建物は市役所である。
大手門。
天守閣跡に上がる。江戸期に天守閣は落雷で焼失し、以後再建されなかった。江戸城と同じで、民生に金を回したのだ。
天守閣跡に相馬神社があるが、近年にできたものである。
眺望はご覧の通り。
相馬駅に戻り、仙台へ向う。
タクシーの運転手さんの話だと相馬市の平地の除染は終わったが、山林はまだである。汚染土壌は市内に保管されていたが、双葉町に移しているという。結局、汚染土は双葉町に集積するのだろうか。
中村城の濠。
右側に見える時代色豊かな建物は市役所である。
大手門。
天守閣跡に上がる。江戸期に天守閣は落雷で焼失し、以後再建されなかった。江戸城と同じで、民生に金を回したのだ。
天守閣跡に相馬神社があるが、近年にできたものである。
眺望はご覧の通り。
相馬駅に戻り、仙台へ向う。
タグ:相馬中村城
常磐線 原ノ町駅 [旅行]
いわき駅を出発し、双葉駅、浪江駅を通過し、原ノ町駅に到着。終点で、ここから仙台駅行きに乗換える。
原ノ町とは素っ気ない町名だが、自治体としては南相馬市である。
相馬と云えば、相馬野馬追が有名だが、行事はこの南相馬市で行われる。相馬市ではない。
駅前。
南相馬市は、福島原発事故後の除染作業の根拠地となっていた。5000人以上の作業員が暮らしていた。除染作業は2018年3月で終わったが、市街地だけで山林部は手つかずのまま。総事業費は3兆4000億円だった。
帰宅困難地域の浪江町の除染はまだ終了していない。
原ノ町とは素っ気ない町名だが、自治体としては南相馬市である。
相馬と云えば、相馬野馬追が有名だが、行事はこの南相馬市で行われる。相馬市ではない。
駅前。
南相馬市は、福島原発事故後の除染作業の根拠地となっていた。5000人以上の作業員が暮らしていた。除染作業は2018年3月で終わったが、市街地だけで山林部は手つかずのまま。総事業費は3兆4000億円だった。
帰宅困難地域の浪江町の除染はまだ終了していない。
タグ:原ノ町駅
常磐線 双葉駅 浪江駅 [旅行]
常磐線でいわき駅から原ノ町駅に向う途中、双葉駅、浪江駅を通過した。現在でもほとんどが「帰宅困難地域」である。
双葉駅前。土嚢が見えた。駅前は整地中というのか、汚染土壌を取り除いているのか、重機が見えた。
土嚢が横に並べてある。汚染土の土嚢のように思えるが、駅前に並べるものだろうか?
双葉駅の次が浪江駅である。
人家まばら、草ぼうぼうの所も多かった。
浪江町の現在の居住者は1100人という。
双葉駅前。土嚢が見えた。駅前は整地中というのか、汚染土壌を取り除いているのか、重機が見えた。
土嚢が横に並べてある。汚染土の土嚢のように思えるが、駅前に並べるものだろうか?
双葉駅の次が浪江駅である。
人家まばら、草ぼうぼうの所も多かった。
浪江町の現在の居住者は1100人という。
タグ:双葉町 浪江町
旅に出よう いわき Jヴィレッジ [旅行]
品川発9時45分のひたち7号でいわきに向う。いわき駅着12時7分。
普通電車の仙台行きに乗換え。
左、特急。右、普通。
途中、Jヴィレッジなる駅に到着。
常磐線らしからぬ?駅名である。
原発マネーでつくったトレーニング場があるらしい。
帰宅して、来年の東京五輪の聖火リレーはここからスタートすることを知る。やはり、政府はフクシマにこだわっているように感じる。
オリンピックが開かれるかどうか、分からないが。
普通電車の仙台行きに乗換え。
左、特急。右、普通。
途中、Jヴィレッジなる駅に到着。
常磐線らしからぬ?駅名である。
原発マネーでつくったトレーニング場があるらしい。
帰宅して、来年の東京五輪の聖火リレーはここからスタートすることを知る。やはり、政府はフクシマにこだわっているように感じる。
オリンピックが開かれるかどうか、分からないが。
旅に出よう 品川駅から特急に乗車 [旅行]
武蔵小杉から横須賀線に乗り、品川駅でおりる。品川駅発の特急ひたちで、いわき駅まで乗るからである。
品川駅も高層オフィスビルの建ち並ぶ街になった。高層ビルは、若いときはスゴイと思ったものだが、恒例になると、否定的になる。要するに、建物と人間様を比較してしまう。建物が多きなれば人間は小さく見えるようになる。高層ビルに入る社員の姿を見ると、蟻の行列に思えてしまう。
それに、東京ばっかり再開発してどうするというのか。東京は肥大化しすぎた。地方創生と云うが、東京で地方創生というのは滑稽だ。矛盾する。東京の肥大化はいずれ自己崩壊する。バブルと同じで、いずれ破綻する。その時に地方に受け皿があればいいが。
品川駅の隣に高輪ゲートウエイ駅ができ、ビルの集積化がより進むことになる。行く末が恐ろしい。
いわき駅行きの特急ひたち号に乗車。
東北は、太平洋側を北上する旅の始まりだ。
品川駅も高層オフィスビルの建ち並ぶ街になった。高層ビルは、若いときはスゴイと思ったものだが、恒例になると、否定的になる。要するに、建物と人間様を比較してしまう。建物が多きなれば人間は小さく見えるようになる。高層ビルに入る社員の姿を見ると、蟻の行列に思えてしまう。
それに、東京ばっかり再開発してどうするというのか。東京は肥大化しすぎた。地方創生と云うが、東京で地方創生というのは滑稽だ。矛盾する。東京の肥大化はいずれ自己崩壊する。バブルと同じで、いずれ破綻する。その時に地方に受け皿があればいいが。
品川駅の隣に高輪ゲートウエイ駅ができ、ビルの集積化がより進むことになる。行く末が恐ろしい。
いわき駅行きの特急ひたち号に乗車。
東北は、太平洋側を北上する旅の始まりだ。
武蔵小杉駅今昔 [雑感]
武蔵小杉駅は、いつできたのか?
1926年に東横線が開通したときは、新丸子駅の次は元住吉駅だった。
1927年に南武線が開通。この時に現在の武蔵小杉駅の位置に「グラウンド前」停留場がつくられた。また、府中街道沿いに「武蔵小杉駅」ができた。だから、昔の武蔵小杉駅は今で云えば中原区役所あたりにできたのだ。ここは小杉町であるので、武蔵小杉駅としたのだ。
「グラウンド前」停留場は、ここに横浜正金銀行のグラウンドがあったから名付けられた。横浜正金銀行のグラウンドは、その後、東京銀行のグラウンドになり、バブル崩壊まで存続した。当時は東京銀行の社員やOBが優雅にテニスを楽しんでいたものだ。
1939年に東横線に工業都市駅が開業した。府中街道沿いである。今のグランツリーがあるあたり。なぜなら、府中街道沿いに多数の工場が建設されたからだ。戦前の軍需景気のおかげである。
1944年、戦時中だね。南武線のグラウンド前停留場を武蔵小杉駅とし、以前の武蔵小杉駅は廃止した。
1945年、乗り換え専用に東横線の武蔵小杉駅ができた。通勤客専用で一般客は利用できなかった。南武線の真上に東横線の武蔵小杉駅ができたのだ。
1947年に一般客も利用できるようになった。私が覚えているのは、この時からだ。まだ幼児の頃だ。東横線から南武線に乗換えるために急な階段を上り下りした。小さな子供には恐かった。
問題は、武蔵小杉駅と工業都市駅が近かったことだ。目と鼻の先に駅が二つあったのだ。そこで中間に東横線の武蔵小杉駅を移動させ、工業都市駅を廃止した。新しい武蔵小杉駅ができた当時、長いホームに呆れたものだった。今では当たり前の長さだが、当時は3両編成だったからね。
こうやって、武蔵小杉駅はできたが、昔の名残がある。それは新丸子駅と近いことだ。徒歩で5分程度の距離しかない。いまさら新丸子駅を廃止するわけにもいかない。駅前に商店街ができていたから、店の死活問題である。
現在の武蔵小杉駅周辺は高層ビルが建ち並ぶ高級住宅地のイメージだが、昔は工場が並ぶ労働者の街だった。風紀は悪かったらしい。子供は行っては行けない場所で、親に注意されたものだ。
1926年に東横線が開通したときは、新丸子駅の次は元住吉駅だった。
1927年に南武線が開通。この時に現在の武蔵小杉駅の位置に「グラウンド前」停留場がつくられた。また、府中街道沿いに「武蔵小杉駅」ができた。だから、昔の武蔵小杉駅は今で云えば中原区役所あたりにできたのだ。ここは小杉町であるので、武蔵小杉駅としたのだ。
「グラウンド前」停留場は、ここに横浜正金銀行のグラウンドがあったから名付けられた。横浜正金銀行のグラウンドは、その後、東京銀行のグラウンドになり、バブル崩壊まで存続した。当時は東京銀行の社員やOBが優雅にテニスを楽しんでいたものだ。
1939年に東横線に工業都市駅が開業した。府中街道沿いである。今のグランツリーがあるあたり。なぜなら、府中街道沿いに多数の工場が建設されたからだ。戦前の軍需景気のおかげである。
1944年、戦時中だね。南武線のグラウンド前停留場を武蔵小杉駅とし、以前の武蔵小杉駅は廃止した。
1945年、乗り換え専用に東横線の武蔵小杉駅ができた。通勤客専用で一般客は利用できなかった。南武線の真上に東横線の武蔵小杉駅ができたのだ。
1947年に一般客も利用できるようになった。私が覚えているのは、この時からだ。まだ幼児の頃だ。東横線から南武線に乗換えるために急な階段を上り下りした。小さな子供には恐かった。
問題は、武蔵小杉駅と工業都市駅が近かったことだ。目と鼻の先に駅が二つあったのだ。そこで中間に東横線の武蔵小杉駅を移動させ、工業都市駅を廃止した。新しい武蔵小杉駅ができた当時、長いホームに呆れたものだった。今では当たり前の長さだが、当時は3両編成だったからね。
こうやって、武蔵小杉駅はできたが、昔の名残がある。それは新丸子駅と近いことだ。徒歩で5分程度の距離しかない。いまさら新丸子駅を廃止するわけにもいかない。駅前に商店街ができていたから、店の死活問題である。
現在の武蔵小杉駅周辺は高層ビルが建ち並ぶ高級住宅地のイメージだが、昔は工場が並ぶ労働者の街だった。風紀は悪かったらしい。子供は行っては行けない場所で、親に注意されたものだ。