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津和野・益田旅行 萩・石見空港 風の丘広場 [旅行]

羽田便に乗るべく、萩・石見空港へ。ただ、時間が早かった。夜便は18時25分の出発である。

空港前の風の丘広場へ行く。綺麗に整備された公園である。

広場から、萩・石見空港を見る。開港当初は石見空港だった。その後に萩が追加され、萩・石見空港となった。利用者は少ない。開港当初は、羽田便が2便、大阪便が2便だったが、大阪便は廃止され、羽田便の2便だけとなった。

地理的にはこのあたりに空港があっておかしくないが、ローカル・サイズで十分なような気がする。竹下登の政治力でできたようなものだ。

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空港前を見れば、台地を削って建設されたようである。

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広場を歩く。「イノシシ出没注意」という立て札に驚く。このあたりはイノシシが出る。近くの人にきくと、「そうなんですよ。イノシシには困ります。」という。イノシシより熊の方が恐いように思えるが、熊は臆病ですからという。イノシシはともかくスピードがあって、逃げるのが大変らしい。

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明るい日差しで、イノシシも出まいと歩く。

空港の滑走路が一望できる。萩・石見空港は、海沿いの高台に建設された。

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歩き飽き、空港へ向う。まだ早く、空港は閑散としていた。土産物店だけが開いていて、従業員がいた。他はまったく人の気配がなかった。

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レストランは16時から営業を始めた。やがて、ツアーの2団体がやって来て、賑やかになった。

18時25分の便で羽田に向った。羽田空港に着くと、ホッとする。達成感を感じた。しかし、いつまで旅行に出かけられるかというと、もう時間がない。よくて、今年の秋ぐらいまでかと思う。今年の紅葉が最後の旅行になるかもしれないと予想している。

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津和野・益田旅行 益田市 蟠竜湖 柿本神社 [雑感]

三里ヶ浜を歩いたあと、荻・石見空港へ向う。途中、蟠竜湖に立ち寄る。

蟠竜湖という名前通りに、竜がのたうち回っているような、入り組んだ形をしているらしい。湖岸から見ると、一部分しか見えないわけで見栄えがしない。

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貸しボート屋があったが、時間がなかった。金魚に餌をやっただけ。

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蟠竜湖から近くに鎮座する(高津)柿本神社を訪れる。高角山にある。

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神社から見る風景。柿本人麻呂はここから妻へと袖を振ったという。これを歌った和歌がある。今でも手を振る新婚夫婦を見ることがあるが、時代が違っても、これは変らない。柿本人麻呂は愛妻家だった。

科学技術は進歩するが、人間の本性は変らない。変らないから、古典を読めるのだ。

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ここを最後にして、空港へ向う。ともかく、無事に旅行を終えた。









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津和野・益田旅行 益田市 三里ヶ浜 [旅行]

益田市の西にある三里ヶ浜へ。

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美しい海岸線を想像していたが、違っていたね。

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防波堤があった。位置関係から思うに、ここで海水浴をするらしい。

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防波堤まで歩いてみる。周囲を見ると、長い砂浜はなく、護岸のコンクリートを打ち込んでいた。日本の砂浜がなくなっているときくが、ここもそうなのか。

日本の海岸は、テトラポットとコンクリートだらけだ。

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タグ:三里ヶ浜

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津和野・益田旅行 萬福寺 医王寺 [雑感]

益田を代表する人物は、柿本人麻呂と雪舟である。

益田市には、雪舟庭園を持つ寺院がある。萬福寺と医王寺である。益田川に沿った地域にある。

まず萬福寺を訪れる。

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雪舟庭園。何か、石を仏に見立てれば、浄土を表現しているのかと想像するが、私は仏教信者ではない故、実感しにくい。

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萬福寺から医王寺へと移動する。

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庭園。

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廊下にテーブルと椅子があり、ゆっくりと眺められるようになっていた。庭園は見るのではなく、庭園の中にいること、庭園に包まれていることを感じるのが正しいと思う。ある程度の時間が必要だ。

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若いときはすぐ退屈したが、歳を重ねるにつれ、退屈しなくなる。ボンヤリしている間に、数時間が過ぎてもなんともない。脳の仕組みが変ってしまったのだろう。家でボンヤリするのは時間の無駄と思うが、庭園の中ではそういうことはない。






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津和野・益田旅行 櫛代賀姫神社 [旅行]

益田市にある櫛代賀姫神社を参拝する。益田駅前の観光マップ看板を見ると、この櫛代賀姫神社だけポツンとかけ離れた場所にある。興味が出てきた。

日本海に近い高台にあった。

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下を流れるのが益田川。

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古社で延喜式内社である。

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祭神は、櫛代賀姫と応神天皇だ。

櫛代賀姫はこの地を開拓した櫛代族の祖神である。女神だが、男神の方は、浜田市に神社があるという。

もともとは、浜辺にあったらしい。中世の大波で消失し、この高台に移されたという。



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津和野・益田旅行 朝の益田駅 [旅行]

旅先ではよく眠れない。いつも早起きしてしまう。早朝、益田駅前を歩く。

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益田市も人口が減少し、5万人を割った。過疎化が進んでいる。

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駅の近くに”新天地”の歓楽街がある。夜、歩かないと、どういう賑やかさなのか分からないが、まったく酒は飲めないので、こういう場所は敬遠している。

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住宅地に入る。

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表通り。

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津和野・益田旅行 永明寺 森鷗外墓所 [旅行]

森鷗外の墓所がある永明寺(ようめいじ)は津和野の中心街からは離れたところにある。

本堂はまだ改修中だった。

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庫裏を見る。

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かなり状態が悪くなっていて、補修工事が必要なように思えた。ただ、曹洞宗の寺院で檀家が少なく、資金面で苦労しているそうだ。先代の住職さんが亡くなって、専任の住職さんがおらず、他の寺院の住職さんが兼務するような状態だ。地方のお寺は厳しい。

一角に庭園がある。

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森鷗外の墓所におまいりした。

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森鷗外は遺言で津和野の地に墓所を設けるように言ったのだ。10歳で津和野を出て、以後50年間戻ることのなかった土地である。

その気持ちは分かるようであり、分からないようでもある。

鷗外は日本を普請中と言った。我々の時代も、なおそれが続く。時代の変遷は目まぐるしい。


タグ:森鷗外墓所

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津和野・益田旅行 津和野 殿町 本町 [旅行]

山陰の小京都と呼ばれる津和野観光の目玉は、武家屋敷の並ぶ殿町である。

太皷谷稲成神社から殿町へ移動する。

殿町の入口道路に太皷谷稲成神社の鳥居が立っている。

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殿町。十何年か前にここへ来たときは、美しい街並みだと感動したものである。今回歩いた印象は、通りが案外と短いということだった。新鮮さがなくなったのか、自分の感動力がうすれたのか、それは分からない。

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立派な門構えを見ると、時代の違いを感じる。今の住宅には門がない。

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マンションになれば、そもそも門を構えることは考えられない。門は、権威の象徴であり、外敵から家を守るためのものだった。

殿町の通りには掘割があり、金魚が泳いでいる。

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武家の町・殿町と町人の町・本町は今では隔てない通りになっているが、江戸時代には両者の間に門が設置されていて区分されていた。

今では信号があるだけで、信号を渡ると、本町である。街並みが変る。

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津和野・益田旅行 太皷谷稲成神社 [雑感]

津和野の名所は、武家屋敷通りの殿町と太皷谷稲成神社である。

太皷谷稲成神社は津和野城(山城である。)の登り口に当たる太皷谷に創建された神社で、津和野城の守り神である。

日本五大稲荷の一つとされていて、津和野駅にもそういう案内があった。

千本鳥居で有名だが、山道を上がらなければならない。脚力が衰えた身にはきつい。車道から上がる。

駐車場側の鳥居。

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正面の高台に津和野城址があり、石垣が残っている。ただ、見分けにくかった。

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社殿。稲荷神社らしく、朱塗りである。(なお太皷谷稲成神社は「稲荷」ではなく、「稲成」としているのが珍しい。)

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太皷谷稲成神社は、昭和に社殿を新しくした。この時に朱塗りのものにした。元宮が残っている。地味な普通の神社である。地元の人の中には、元宮の方がいいという人もいた。今の社殿は派手すぎるという。

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津和野・益田旅行 森鷗外旧宅 [旅行]

津和野は、森鷗外が生まれた地である。森鷗外の旧宅は現代まで保存され、旧宅の隣地に森鷗外記念館が建てられている。

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旧宅は意外と狭いが、江戸時代、明治時代は、このようなものだったのだろう。自分は、幼児に育った自宅を思い出した。社宅だったが、大きさは、これより、一回り小さかった。

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鷗外の幼少時の部屋。ここで勉学に励んだのだ。

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台所。土間で、粗末なように思えた。

自分の家は、板間で、水道、ガスがあった。電気冷蔵庫はまだなく、電気洗濯機もなかった。それなりに、時代の恩恵を受けていた。

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森鷗外の旧宅の横を津和野川が流れている。

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正面の丘の上に津和野城の石垣が見えた。津和野城は山城だった。

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右手に太皷谷稲成神社が見えた。津和野城への登り口にあり、城の守護のために創建されたものだ。日本五大稲荷の一つとされている。

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森鷗外記念館に向う。牡丹が綺麗に咲いていた。

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津和野は森鷗外の生地だが、鷗外は10歳の時に津和野を出て以来、一度も津和野に戻ることはなかった。これで津和野とは縁が切れたはずだが、遺言で津和野に墓をつくることになった。墓は、永明寺にある。

なぜなのか?と考えてしまう。

森鷗外は、明治日本を普請中と嘆いた。今も、日本は、欧米の思想を受け入れるのに忙しく、消化不良状態である。違いは、鷗外の世代は、日本と西欧の相克に悩んだが、現代は、彼我の違いに悩んでいないことだ。日本固有のアイデンティティは敗戦で衰弱した。しかし、相克はれっきとして存在する。意識しないだけだ。

2022年は、森鷗外没後100年になる。






タグ:森鷗外旧宅

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