SSブログ

清澄公園 [雑感]

清澄公園を歩く。お隣が清澄庭園で、都内にある日本庭園として有名だが、清澄公園は普通の公園である。深川にある。

深川という地名は知っていたが、初めて行ったのは17年前である。横浜に住む人間にとっては東京の下町は関心が起きない場所だった。関心が起きたのは、池波正太郎の小説を読んでからである。最初に行ったところは、深川不動堂である。

05清澄公園 (3).jpg


05清澄公園 (4).jpg


05清澄公園 (5).jpg


前を親子連れが歩いていた。いいものだ。この子供たちが大きくなるにつれ親に逆らうことになる。親子にミゾが出来るのだ。

たまに思うが、幸福な子供時代を過ごした人はそれだけでも幸福だと思う。悲惨な幼児期を過ごした人は、たとえその後に成功したとしても、記憶に傷が残る。

人は、段々と自分のキャリアを積み重ねていくが、それも老いるに従い、剥げ落ちていく。老年になれば、過去のキャリアは無意味に思われてくる。一番最後に残るのは幼児期の記憶だ。いくら人生で成功体験を積み重ねたところで、老いれば、成功体験の記憶は薄れ、幼児期の思い出が残る。

貧困から脱出して成功を重ねる人は多いが、晩年は幸福だったのだろうかと思う。死の床で思い浮かべるのは幼児期の惨い経験だろう。子をつくった以上、幸福な幼児期を過ごさせるのが親の義務だが、大方は自然とそのようになる。

私の親は、多分、普通の親だったので、それだけで十分幸福だった。これは有り難いことで、それだけでも感謝する。

私が成長するにつれ、父と母の間に亀裂が入り、そのことが自分の人生に影響を与えたように思う。こういうことは考えたくないことで、自然と避けてきた。嫌なことは考えたくない。

しかし、人生も終盤になれば、嫌なことも真正面から凝視できる。

05清澄公園 (6).jpg


05清澄公園 (7).jpg


公園の樹木も色付き始めている。人々がノンビリと時を過ごす。こういう光景を見ると、日本は平和だなと思う。街の中が安全であるのが第一で、人を見たら泥棒を思え、という国は、国としておかしい。外国の例を考えると、日本はまだ健全だ。

05清澄公園 (8).jpg


05清澄公園 (9).jpg


金より安全を尊ぶのが高齢者である。






タグ:清澄公園

共通テーマ:日記・雑感

秋色濃く [雑感]

秋色濃く、樹木も色付いてきた。秋の散策は、ひとしお、身に沁みるものがある。

IMG_9275.jpg


IMG_9276.jpg


IMG_9277.jpg


樹木も夏に最盛期を迎え、秋に色付き、やがて散ってか枯れ木になる。人間だって同じじゃないか。

ところが、なかなか枯れ木になれないのが問題だ。医学の進歩が死を妨げる。我々は、なかなか死なないリスクを負う。死ねないことを恐れるのだから、逆しまの世界だ。科学の進歩に人間が追いつけない。

こんな世界が来ることは予想もしなかった。

IMG_9280.jpg


IMG_9283.jpg


IMG_9284.jpg


高層ビルを見ると、人間が小さく見える。科学技術の進歩を前にすると、人間は貧寒な存在でしかない。「魔法使いの弟子」と同じく、人間は自分が生み出した科学技術に溺死しそうになっている。

行きづらい世の中ではある。誰が高笑いしているのだろうか?


共通テーマ:日記・雑感

七五三 [雑感]

首都圏の風景は変わり果てた。それを再開発と囃す向きもあるが、再開発とは、古いものを破壊し、新しいものを建てることだ。

新しいものに魅せられることばかりがクローズアップされるが、破壊された古いものを惜しむ立場があってもいい。なんでもかんでも、新しいことがいいとは云えない。

何が失われたのだろう? 老いると、過去を振り返りたくなる。

最近、神社へ行くことが多いのは、まだ昔の面影が残っているからだ。神社の周辺の景色は変わり果てたかもしれないが、神社そのものは昔と変らない。

変らないものと云えば、七五三行事も同じだね。初詣も同じだ。こういう生活習慣は根強い。心強く思われるところだ。

11月は七五三シーズンである。神社で七五三詣での家族連れの姿を見かける。

01住吉神社 (1).jpg


私も七五三詣で神社へ行ったことがある。当時の写真が残っている。

その写真を見ると、この写真の子が今の私になったことが信じられないのだ。どう繋がっているというのか。

どうして今の私になったのだろう? 自分の人生を振り返っても、分からないのだ。行き当たりばったりに生きてきた気がする。色々あって、その時その時の状況に適応して生きてきた。

自分で選んだ人生ではないような気がする。老齢になり、死を間際にすると、何か、大きな運命に従って生きてきた気がする。

「自分の未来は自分で決める」地下鉄の広告にあった言葉だ。予備校の広告だったかな。自分も若い時は、そう考えていた。若い時ばかりではない、つい直近まで、そう考えていた。ところが、体が動かなくなるに従い、自分の意志よりも運命の方が力が強かったと思うようになった。

なぜそう思うようになったかは分からない。人間のできることは限られていると考えるようになったからかもしれない。自由意志と云うが、自分で飛び回っているように思っても、所詮、お釈迦様の手の平の上、という孫悟空の話がある。正しい。人間の出来ることは狭い範囲に限られている。

近代人の病は、人間は万能であると考えることだ。人間には不可能なことはないと考えることだ。

共通テーマ:日記・雑感