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「ゾラの生涯」(ウィリアム・ディターレ) [映画]

1937年製作のアメリカ映画。この作品は第10回アカデミー賞の作品賞を受賞している。監督はウィリアム・ディターレ、主演はポール・ムニ。

このコンビは前年に製作された「科学者の道」と同じである。「科学者の道」はパストゥールの生涯を描き、ハリウッドに伝記映画というジャンルを確立した。

製作映画会社はワーナー・ブラザースで、ギャング映画が得意な映画会社だった。世間の顰蹙をおおいにかっていたので、禊ぎの意味を込めて製作したらしい。フランクリン・ルーズベルト大統領の時代で、啓蒙主義的風潮もあったことも後押しした。

冒頭で、この映画は史実に基づいているが、名前や設定はフィクションであると断りが入っている。ゾラの年譜とこの映画の設定を比較すると、かなり自由にアレンジされていることが分かる。

1862年、貧しいパリのボヘミアン生活を描くところから始まる。ゾラは画家のセザンヌと同居している。プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」を彷彿とさせる演出である。この場面は「ラ・ボエーム」の影響を受けている。

やがて書店に勤めるが、いかがわしい小説を書いたということでクビ。ここから無名の作家として極貧生活を送るが、娼婦のナナを知ったことで、彼女をモデルにして小説「ナナ」を書き上げ、一躍流行作家となる。やがて普仏戦争がおき、ゾラは軍部の腐敗を知る。真実のために戦うゾラを、彼の著作群を並べて一気呵成に見せる。

これら一連の出来事は改変されている。ゾラが作家として認められたのは「テレーズ・ラカン」(1867年)で、文名を確立した作品は「居酒屋」(1877年)である。「ナナ」は1880年の出版。「ナナ」がスキャンダルになったことは事実だが、それ以前にゾラは作家として認められていた。

この映画の順序で行くと、「ナナ」の出版以後に普仏戦争が起きたことになるが、普仏戦争は1870年に起き、「ナナ」を出版する10年前の出来事だ。だいたい小説「ナナ」の最後は、普仏戦争に熱狂するパリの民衆を描いているから、この映画のようなことはありえない。

この映画は全編で1時間55分だが、ここまでで僅か30分。

残りはすべてゾラとドレフュス事件の関わりが当てられている。この映画の題名は「ゾラとドレフュス事件」とした方が適切なように思える。

ドレフュス事件に関わる前のゾラは、作家として十分に成功し、やや怠惰な気分に浸りこんでいたと描かれている。アカデミー・フランセーズに推薦するという手紙も受け取っている。作家として最高階に上り詰めようとしていた。(もっともこれは事実ではない。ゾラはアカデミー・フランセーズ会員になりたかったが、終生会員にはなれなかった。断られたのだ。)

映画はやや退嬰的になったゾラを描いた後、いきなりドレフュス事件の経緯を描く場面に転換する。唐突感は否めず、これがこの映画の欠点といえる。

ドレフュス事件の詳細は知らないので、この映画がどれだけ事実に即しているか、判断できない。

映画の描くことによれば…。

フランス軍の機密情報をドイツ大使館に流したという罪で、ドレフュス大尉がスパイとして有罪判決を受け、悪魔島に流罪となる。これが冤罪だったのだが、ドレフュスがユダヤ人だったことが影響していたといわれる。

情報部長のピカールが再調査し、エステラジー伯爵が真犯人だと突き止める。しかし、軍首脳部は軍の無謬性を維持するためにピカールの調査を揉み消す。わざわざエステラジー伯爵を軍法会議にかけ、無罪を演出する。

組織防衛のために事実を隠蔽する。これは当時のフランス軍にかかわらず、強固な組織ではありがちなことである。最近、日本でも同じようなことが起こっているね。

この映画では、ドレフュス夫人がゾラ宅を訪れ、協力を要請する。そこでゾラがドレフュス事件に関わりだしたという設定になっている。ドレフュスが有罪判決を受けたのが1894年で、ゾラが動き出したのが4年後の1898年。

有名な「われ弾劾す」が新聞に掲載されたのは1899年。この記事で軍部を中傷した罪で、ゾラは裁判にふされる。この法廷場面がこの映画のクライマックスである。この裁判自体が軍部に有利なように偏向していた。ゾラが主張したかったことは「軍を救って国を救えるか。真実をこそ救って欲しい」ということである。このゾラの演説は感動的だ。

ゾラは有罪判決を受け、イギリスに亡命する。

ドレフュス事件については、新任の陸軍大臣が再調査を命じ、軍の隠蔽工作が明らかになる。ドレフュスは無罪となり、本国に帰還。陸軍に復帰するが、その前夜にゾラはストーブ事故のため一酸化炭素中毒で死ぬ。

ゾラの死については、反ドレフュス派による謀殺説もあるが、この映画では単なる事故死としている。
映画は劇的に構成しているが、ゾラの死は1902年であり、ドレフュスの無罪確定は、ゾラの死から4年後の1906年であり、事実とは異なる。

この映画は戦前の日本では公開されなかった。強烈な軍部批判が忌避されたのだろう。日本公開は戦後の1948年である。





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