大山寺(だいせんじ) [旅行]
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2015年12月8日。米子駅13時30分のバスに乗り大山寺へ行く。米子市内を通過したがアーケード商店街は閑散としていた。ここも地方都市の例に漏れない。市街地を抜けると、大山の観光地帯に入る。バスはひたすら上る。12月のこの時期は紅葉も終わり、観光客の姿は見えなかった。
終点の大山寺バス停でおりる。14時24分である。米子駅から54分かかった。外に出ると冷気がはなはだしい。標高は900メートルぐらいである。ここから大山の頂上まで2.7キロ。標高差は1000メートルである。大山の標高は1927メートル。
バス停から下を見る。靄でかすんでいたが、美保湾、美保半島は確認できた。思えば、一昨年の12月にこの美保半島へ行き、大山の裾野を見たわけである。頂上は雲で見えなかったが。
大山というと、志賀直哉の「暗夜行路」を思い出す。主人公の謙作は大山で心境の変化をきたす。今ならさしずめパワースポットということになるのだろう。
バス停から大山寺へ向かい歩く。緩やかな登り道である。両側は、旅館、飲食店、土産物店である。人通りはまったくなかった。
仁王門が見えた。
これが仁王門。
仁王門の左に鳥居がたっている。大神山神社奥宮の参道である。神仏分離以前は神仏習合の霊場だったことがわかる。
神仏分離の結果、もとの本宮に神社が残り、下にお寺ができる。神社を格上にした。それが明治のイデオロギーだった。
神仏分離から140年がたつ。神仏習合時代の信仰心を理解するのは難しくなった。
仁王門を通過し、階段を上がる。足元の危うい階段で注意を要する。大神山神社奥宮の参道や階段はなおひどく、足腰の弱い人には向かない。
途中、不動堂があったのでお参りする。
本堂。あまり見栄えがしないが、神仏分離以前は大日堂であった建物である。
<御朱印>
2015年12月8日。米子駅13時30分のバスに乗り大山寺へ行く。米子市内を通過したがアーケード商店街は閑散としていた。ここも地方都市の例に漏れない。市街地を抜けると、大山の観光地帯に入る。バスはひたすら上る。12月のこの時期は紅葉も終わり、観光客の姿は見えなかった。
終点の大山寺バス停でおりる。14時24分である。米子駅から54分かかった。外に出ると冷気がはなはだしい。標高は900メートルぐらいである。ここから大山の頂上まで2.7キロ。標高差は1000メートルである。大山の標高は1927メートル。
バス停から下を見る。靄でかすんでいたが、美保湾、美保半島は確認できた。思えば、一昨年の12月にこの美保半島へ行き、大山の裾野を見たわけである。頂上は雲で見えなかったが。
大山というと、志賀直哉の「暗夜行路」を思い出す。主人公の謙作は大山で心境の変化をきたす。今ならさしずめパワースポットということになるのだろう。
バス停から大山寺へ向かい歩く。緩やかな登り道である。両側は、旅館、飲食店、土産物店である。人通りはまったくなかった。
仁王門が見えた。
これが仁王門。
仁王門の左に鳥居がたっている。大神山神社奥宮の参道である。神仏分離以前は神仏習合の霊場だったことがわかる。
神仏分離の結果、もとの本宮に神社が残り、下にお寺ができる。神社を格上にした。それが明治のイデオロギーだった。
神仏分離から140年がたつ。神仏習合時代の信仰心を理解するのは難しくなった。
仁王門を通過し、階段を上がる。足元の危うい階段で注意を要する。大神山神社奥宮の参道や階段はなおひどく、足腰の弱い人には向かない。
途中、不動堂があったのでお参りする。
本堂。あまり見栄えがしないが、神仏分離以前は大日堂であった建物である。
<御朱印>
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