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成熟できず [雑感]

自分をよくよく観察するに成熟は望めそうもない。時代の影響のせいにするのは安易かもしれないが、戦後世代は成熟・円満と無縁ではないだろうか。

もともと戦後世代ばかりではなく、明治以降に育った人間も同様だったと思うが、それはさておく。戦後世代の特徴は思想の型もなく、生活の型もなかったことである。特に思想的には何らの型も持っていなかった。思想のバックボーンになるものを持たなかった。

これは敗戦の影響もあったのだろう。戦争イデオロギーに従った結果があの悲惨な敗戦になった。戦後日本が思想的イデオロギー抜きで経済一本槍になったのは敗戦の後遺症である。

その結果が高度成長で、これは見事に成功した。ここまでは良かったが、バブルが崩壊し、経済が低迷し始めると、思想的空白が表面化する。本来、ここで思想的反省がなされるべきであったが、結局、経済オンリーから抜けきれず、経済失速がそのまま日本の没落と受け止められるようになっている。

明治以降、西洋文明を受け入れた段階で、皮相なる文明開化という批判があった。この時はまだ皮相であるという認識があった。現在はどうだろうか。皮相であるという認識は皆無である。ネットの時代だから、反省する余裕もない。立ち止まって考えるゆとりがない。



大学受験時代に唐木順三の「現代史への試み」を読んだことがある。これには打ちのめされた。敗戦直後に書かれた本なので槍玉にあがっているのは大正教養派である。いわゆる大正教養派は思想の「型」を持たなかった。個人があり、次に自然・宇宙があった。社会・国家という中間項を抜かした。それ故の弱さを内在していた。大正教養派は共産主義に対抗できず、軍部にも対抗できなかった。これが唐木の批判の要旨だった。

今年だったか、「教養」ということで雑誌に特集が組まれたことがある。ビジネス本ばかり読んでいないで、他のこと、直接役に立たないことも必要ではないかという趣旨だった。その時に唐木順三を思い出した。あれこれ知識があったところで、サラダボウルになっては仕方ない。煮詰めてスープにしなければ生きた知識とはいえない。

求められるべきは「教養」ではなく「修養」である。教養ではおのれの中に「芯」はできない。修養を通してのみ「芯」は形作られる。修養ということになれば、一朝一夕にできることではなく、時間がかかる。静けさも必要だ。情報の洪水に溺れた者には望めないことである。

あの思想、この思想とつまみ食いして着飾っても、孔雀にはなれない。死ぬまでアヒルのままだ。
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