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津和野・益田旅行 森鷗外旧宅 [旅行]

津和野は、森鷗外が生まれた地である。森鷗外の旧宅は現代まで保存され、旧宅の隣地に森鷗外記念館が建てられている。

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旧宅は意外と狭いが、江戸時代、明治時代は、このようなものだったのだろう。自分は、幼児に育った自宅を思い出した。社宅だったが、大きさは、これより、一回り小さかった。

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鷗外の幼少時の部屋。ここで勉学に励んだのだ。

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台所。土間で、粗末なように思えた。

自分の家は、板間で、水道、ガスがあった。電気冷蔵庫はまだなく、電気洗濯機もなかった。それなりに、時代の恩恵を受けていた。

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森鷗外の旧宅の横を津和野川が流れている。

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正面の丘の上に津和野城の石垣が見えた。津和野城は山城だった。

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右手に太皷谷稲成神社が見えた。津和野城への登り口にあり、城の守護のために創建されたものだ。日本五大稲荷の一つとされている。

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森鷗外記念館に向う。牡丹が綺麗に咲いていた。

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津和野は森鷗外の生地だが、鷗外は10歳の時に津和野を出て以来、一度も津和野に戻ることはなかった。これで津和野とは縁が切れたはずだが、遺言で津和野に墓をつくることになった。墓は、永明寺にある。

なぜなのか?と考えてしまう。

森鷗外は、明治日本を普請中と嘆いた。今も、日本は、欧米の思想を受け入れるのに忙しく、消化不良状態である。違いは、鷗外の世代は、日本と西欧の相克に悩んだが、現代は、彼我の違いに悩んでいないことだ。日本固有のアイデンティティは敗戦で衰弱した。しかし、相克はれっきとして存在する。意識しないだけだ。

2022年は、森鷗外没後100年になる。






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