辺路 [旅行]
四国遍路は、最初は「辺路」と記されたいた。
日本今昔物語には、四国の辺地というは、伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を廻るなりという記述がある。
つまり、かっては四国の海辺を廻る修行方法が存在した。
四国八十八カ所霊場が文献に出てくるのは、1631年の「せつきようかるかや」で「四国へんと」「八十八カ所」と記されている。
この頃には八十八カ所が成立していた。だから、それ以前から行われていたということも云える。
以前はもっと長い距離であったらしい。488里あったという。今は300里である。短縮したのである。
昔は、巡礼の形式は現在とは異なっていた。今ではお参りすれば般若心経と唱えるが、かってはそうではなかった。光明真言を唱えるだけであったらしい。
現在の巡礼の形式が整ったのは、20世紀に入ってからである。まだ歴史は浅い。
歩き遍路が正当とされたのも20世紀に入ってからで、江戸時代、明治時代は、船を利用するのが普通だった。当時は道路事情が悪かったからである。
四国遍路では、今では、白い笈摺(おいずる)を着るのが建前だが、これも1930年代の東京の巡礼団が、これが本物と決めたからである。
それが普及したのは、昭和28年に道路が整備され、旅行会社のバスツアーが一般化してからである。
お遍路がブームになったのは、1990年代の後半で、バブル崩壊後である。そのピークが10年前の2005年頃である。
先行きを予想すれば、結構きびしい。遍路に必要なものは、金、体力、暇である。三拍子揃わなければ廻れない。
今後の日本は、これが欠乏することが予想できるからである。
日本今昔物語には、四国の辺地というは、伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を廻るなりという記述がある。
つまり、かっては四国の海辺を廻る修行方法が存在した。
四国八十八カ所霊場が文献に出てくるのは、1631年の「せつきようかるかや」で「四国へんと」「八十八カ所」と記されている。
この頃には八十八カ所が成立していた。だから、それ以前から行われていたということも云える。
以前はもっと長い距離であったらしい。488里あったという。今は300里である。短縮したのである。
昔は、巡礼の形式は現在とは異なっていた。今ではお参りすれば般若心経と唱えるが、かってはそうではなかった。光明真言を唱えるだけであったらしい。
現在の巡礼の形式が整ったのは、20世紀に入ってからである。まだ歴史は浅い。
歩き遍路が正当とされたのも20世紀に入ってからで、江戸時代、明治時代は、船を利用するのが普通だった。当時は道路事情が悪かったからである。
四国遍路では、今では、白い笈摺(おいずる)を着るのが建前だが、これも1930年代の東京の巡礼団が、これが本物と決めたからである。
それが普及したのは、昭和28年に道路が整備され、旅行会社のバスツアーが一般化してからである。
お遍路がブームになったのは、1990年代の後半で、バブル崩壊後である。そのピークが10年前の2005年頃である。
先行きを予想すれば、結構きびしい。遍路に必要なものは、金、体力、暇である。三拍子揃わなければ廻れない。
今後の日本は、これが欠乏することが予想できるからである。
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