土佐清水 祖母の思い出 [旅行]
高知空港から四国八十八カ所霊場第37番札所の岩本寺をお参りし、足摺岬の第38番札所・金剛福寺へ向かう。
この二つの札所の間の距離は、約80キロ。歩き遍路だと2泊3日、車で2時間。
途中、土佐清水で休憩をとる。
土佐清水には格別の思いがある。母方の祖母の故郷だからである。
祖母は30年以上前に死に、もはや思い出すことも稀だが、土佐清水を通れば、必然的に思い出す。
やかましい婆さんだったという印象しかない。
祖母の人生の幾分かを知ったのは、祖母の死後で、妹からきいたのである。
祖母の兄が陸軍の飛行操縦士だったが、大正時代のことだから、これは当時としては先進的なことだった。
その兄から「これからは英語を話せなければダメだ」といわれ、神戸の英語学校に通った。これが出来たということは実家に資力があったからである。
実家が破産したことから、英語の学習は頓挫したらしい。その後、祖父と結婚したのだが、経緯は知らない。
大正時代から、これからは英語が話せなくてはダメだ、といわれ、100年たった今なお、英語が話せなくては国際化に遅れるといわれている。
100年間、日本は何をしていたのだろうと皮肉りたくもなる。
思えば、祖母はあまり幸福ではなかったのではないか。男一人に娘三人の子を育てたが、娘三人は、私の母を含め、皆、30代、40代で若死にしてしまった。
長男は嫁さんに取られたも同然で、結局、一人取り残された形になった。
仏壇の前で手をあわす祖母の姿を思い出す。
土佐清水のどこで育ったのだろうかと思う時があるが、ルーツ探しをする気力はもはや起きない。
これが土佐清水の港である。
バスが停車した”かしま公園”の桜はまだ少し残っていた。
この二つの札所の間の距離は、約80キロ。歩き遍路だと2泊3日、車で2時間。
途中、土佐清水で休憩をとる。
土佐清水には格別の思いがある。母方の祖母の故郷だからである。
祖母は30年以上前に死に、もはや思い出すことも稀だが、土佐清水を通れば、必然的に思い出す。
やかましい婆さんだったという印象しかない。
祖母の人生の幾分かを知ったのは、祖母の死後で、妹からきいたのである。
祖母の兄が陸軍の飛行操縦士だったが、大正時代のことだから、これは当時としては先進的なことだった。
その兄から「これからは英語を話せなければダメだ」といわれ、神戸の英語学校に通った。これが出来たということは実家に資力があったからである。
実家が破産したことから、英語の学習は頓挫したらしい。その後、祖父と結婚したのだが、経緯は知らない。
大正時代から、これからは英語が話せなくてはダメだ、といわれ、100年たった今なお、英語が話せなくては国際化に遅れるといわれている。
100年間、日本は何をしていたのだろうと皮肉りたくもなる。
思えば、祖母はあまり幸福ではなかったのではないか。男一人に娘三人の子を育てたが、娘三人は、私の母を含め、皆、30代、40代で若死にしてしまった。
長男は嫁さんに取られたも同然で、結局、一人取り残された形になった。
仏壇の前で手をあわす祖母の姿を思い出す。
土佐清水のどこで育ったのだろうかと思う時があるが、ルーツ探しをする気力はもはや起きない。
これが土佐清水の港である。
バスが停車した”かしま公園”の桜はまだ少し残っていた。
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